by 石橋 雄介
2019年1月、Catch The Fireトロントのカンファレンスを、自宅からYouTubeで観ていました。誰もいない小さな寝室でたった1人、力強い主の臨在を感じ始めていました。当時、新しい飢え渇きを覚えていた私は、聖霊をもっと求めていました。礼拝を観ながら、私は主にこう訴えました。
「主よ、今あなたはトロントの集会で素晴らしいことをなさっておられます。でもあなたは、今ここで、私とも一緒におられますよね!だから、トロントの会場であなたがしておられる御業と、同じことを私の上にも起こしてください!」
しばらくすると、私は突然、激しい聖霊の力に打たれました。聖霊の熱い炎が頭から勢いよく注がれ、身体中が震え出し、床の上に倒れて、そのまましばらく動けませんでした。もう一度言いますが、私はたった1人、自宅の小さな寝室でYouTube越しに礼拝を観ていただけ。誰かが手を置いて祈ってくれたわけではありませんでした。映像に夢中になる私のもとに、突如、聖霊が訪れてくださったのです。
あの晩、今まで以上に神の存在がリアルになりました。そして私の心に、キャロル・アーノットのある一言が留まりました。
「1日15分、ただイエスを愛する時間を毎日持ったら、人生変わります」
毎日、聖書を読む、デボーションをする、とりなし祈る、そのようなクリスチャンらしい日課が私にもありました。それらは今でも、私の力となっています。でも、キャロルが教えてくれた「ソーキング」の時間は、主の前で私は何もしません。祈りのリストをあげることも、御言葉を学ぶことも、この時はしません。ソファに腰をかけるか、床の上で横になるか、完全にリラックスした姿勢で、ただ神のことを想うだけ。「イエス様、あなたを愛しています。あなたの愛でもっと満たしてください」そう、そっと囁きながら安息するのです。
ソーキングは「浸る」という意味です。温泉に浸かってリラックスする時のように、天の
お父さんの愛に、主の臨在に、ただゆっくりと浸る時間、それがソーキングです。そうい
う時間の過ごし方は初めてで、最初の頃は、15分間何もしないという時間がとてつもなく
長く感じました。そのまま寝落ちしてしまうこともしばしば。でも、毎日ソーキングをし
ていくうちに、私の人生の新しい土台となる恵みの領域が開かれました。
神との親密な関係
私たちは様々な人間関係をもっています。夫婦、親子、兄弟、友人、同級生、同僚、上司などです。でも、全ての関係性が同じではありません。親しい仲から知り合いまで、関係性の度合いは、一緒に過ごした「時間」によって異なります。ただ時間が長ければ良い、という訳でもありません。たとえば、職場の人とは毎日時間を共有していますが、彼ら全員があなたにとって親しい友人ですか?一緒に仕事をしているだけでは、物理的な時間の共有があったとしても、親密な関係は築かれません。一方、夫婦、家族、親友との関係性はどうでしょう?職場とは違い、彼らと仕事はしていませんが、そこには「親密さ」が築かれています。
本当に「親しい」と思える相手と、私たちは心を共有しています。相手を知り、自分を知ってもらう、そのために時間を過ごしています。互いを知れば知るほど、心をもっと素直に開いて、正直な対話をするようになります。互いの弱さも分かち合い、励まし合うこともします。
また、何か特別な目的がなくても、そこに会話がなくても、ただ同じ空間にいて時間を共有することに、喜びと安らぎを感じます。そのような時間の共有を繰り返すなら、そこに親密さが育まれ、愛し合う関係へと成長します。
神は、私たちと愛し合う関係を築きたいと願っています。そのためには、時間の共有が欠かせません。相手を知るために必要なのは、相手に耳を傾けることです。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ」詩篇46:10
ソーキングに出会う前の私は、神のもとで、自分の思いを一方的に話すばかりでした。感謝なことも、苦しいことも、とりなしの祈りも、一生懸命伝えるだけで、神に話すチャンスを与えていませんでした。しかし、ソーキングは、おしゃべりな私を静まらせ、神の声に耳を傾けることを教えてくれました。それまでは、早く祈りが応えられてほしい、問題が解決されてほしい、と必死に祈っていました。でもソーキングを重ねるうちに、そのような思い煩いが消えて、心配事は全部神に委ねられるようになっていました。そして、神をもっと知りたい、ただそのために、時間を過ごすようになりました。
ソーキングをする時、私の場合、ポンッと浮かんだ言葉やイメージによって、神の語りかけを感じることがよくあります。何かを受けとったら、ノートに書き出すようにしています。時間が経って日々の忙しさにもまれると、つい忘れてしまうからです。
ソーキングで与えられた神の言葉を、時間が経っても自分の内で味わい続けることで、日常の忙しさの中でも、神の存在をもっと体験できるようになります。
一方、ソーキングの最中に、何も特別なことが起こらないこともよくあります。一見、何もしないで、ただ時間がゆっくりと過ぎていくだけに思えます。でも、神は私たちの知らないところで、働いておられます。私たちの頭脳が、神の業を認識できないからといって、神がいないわけではありません。それは、呼吸の感覚とよく似ています。「今、酸素を吸っているぞ!」と意識しながら24時間呼吸をしている人はいません。酸素は目に見えないし、呼吸している感覚もほとんどありません。けれども、酸素が体内に取り込まれることで、身体中の細胞が活性化します。反対に、たったの数分でも呼吸ができなければ、命に危険が及びます。呼吸は、生きるために必要不可欠です。同じように、ソーキングの最中、私たちは霊の呼吸をしています。神の臨在が私たちの身体、魂、霊にまで行き渡り、神が私たちのうちに働きかけてくれているのです。「語られた」という認識がなくても、神の臨在の中で時間を過ごすと「平安」で満たされます。この平安が、力強い神の声であり、神の存在そのもので
す。
また、ソーキングは癒しのプロセスでも重要な役割を果たします。地上の人間関係から、私たちは様々な傷を受けています。親子、家族、学校、職場、教会、その他様々な場面で多くの人に囲まれて成長する過程で、他者の言動によって傷つき、傷の癒しを主からきちんと受け取らないまま、今日も歩き続けていることがよくあります。神は、そんな私たちの心の奥深くに光を照らし、癒しのシーズンへと導かれます。過去の傷と、そこから派生する罪や裁きなど、縛られているものから自由にされ、キリストの恵みのうちを私たちが大胆に歩くことが神の切なる願いだからです。でも、そのプロセスは簡単ではありません。それは、絆創膏を貼って長年放っておいた傷のようなもの、見えないところで膿が生じたり、傷口が広がったりしている状態が露わになるので、治療の期間、傷口に痛みを感じます。心の癒しも同様で、プロセスがいざ始まると、思いも寄らぬ痛み、重たさ、激しい感情の揺れを体験します。過去に傷ついた内なる人が、慰められないまま、長い時間経ってしまったことによる現象です。
ソーキングは、傷ついた私たちが、天のお父さんの愛を全身全霊で受け取る絶好の機会で
す。心の奥深くでずっと傷ついたままだった幼い私、その姿は孤児のようであり、被害者
の苦しみの中で戦い続けています。すでに、相手のことを「赦す祈り」は捧げてきたかも
しれませんが、それでも心の中では未だに、苦しみが続いていることがあります。
聖書は「心から赦す」ことを教えています。イエスに従う者として、私も誰かを赦す祈りを、信仰によって捧げてきたことが何度もあります。でも、本当の赦しとは「心から」なされるものであり、心から赦しを告白するためには、傷ついた心がきちんと慰めを受けることが不可欠です。
私も数年前、癒しのシーズンへと導かれた時は、大変な数ヶ月を過ごしました。毎日のように感情のアップダウンが激しく、心の奥がいつもキリキリと痛みを感じ、夜の寝つきも悪く、朝は心身重たくて起き上がるのが億劫でした。でも、その間のソーキングは、今まで以上に充実した時間でした。何もしないで、主の臨在にただ浸っている15分間は、まるで温泉に浸かるような心地よさがありました。瞬時に解放された感覚があったわけではありません。でも、傷つき、疲れ、またこれ以上傷つかないように気を張っていた心と体が、主の愛の温泉の中で脱力し、安息しているのが分かりました。
温泉にいくと、「このお湯は、肩こり腰痛に効果があります」みたいな表札がありますよね?お湯に少し入っただけで、奇跡的に痛みが消えるわけではありません。毎日少しずつ、温かいお湯の中に痛めた身体を浸して、身体の根本から温まる、それを日々繰り返すことで、身体の余計な疲れや緊張がほぐれ、やがて痛みは消え、日々の体のコンディションがより一層整うようになります。
当時の私も、日々のソーキングが癒しのプロセスを加速させたと思います。一遍にすべて
の問題が解決したわけではありません。でも、ソーキングを繰り返すうちに、問題となる
出来事よりも、私の存在そのものが、天のお父さんの愛と慰めを思う存分受け取り、主か
らの平安を取り戻し始めたのを覚えています。
そしていざ、問題の要となる部分に、正面から向き合わされた時、私はその人を心から赦し、また相手を長年裁いていた己の罪も悔い改め、神の前に、傷ついた過去を完全に手放すことができたのです。それは決して自分の力によってなされたことではありません。ソーキングを通して、私の全人格に注がれ続けた天のお父さんの愛の力が動機となって、赦しの恵みを得ることができたのです。
ソーキングは、愛の温泉です。
天のお父さんが、息子、娘である私たちに無条件の愛を注ぎ、傷ついた心を慰め、労わって
くれている時間です。また、癒されたあとも、ソーキングは私の人生にとって欠かせない時間となっています。神を知れば知るほど、私は神の愛に圧倒されます。そして、神は私にもいつも語ってくれます。特にソーキングで主の臨在に安息している最中は、神にとって私がどういう姿なのかを教えてくれます。それは、日々慌ただしく動いている時にはなかなか受け取れません。静まって、横になって、ただ神の心に想いを向けている時だからこそ、素直に受け取ることができる真理です。そうして、言葉と臨在をもって主が注いでくれた愛の真理を土台に、再び立ち上がって歩き出す、その繰り返しです。
「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」マルコ1:11
これは、イエスが宣教を始める前、ヨルダン川で洗礼を受けたときに、天の父から受け取った言葉です。このとき、イエスはまだ、公の働きを何一つしていませんでした。人を癒すことも、御国を解き明かすことも、何一つしていません。そんな御子の存在に向けて、天の父の無条件の愛が先に注がれました。私たちも同じです。ぜひ、ソーキングを通して、天のお父さんの愛を日々新鮮に受け取ってください。そして、イエスのように、私たちの全ての働きの源が、天の父の無条件の愛となりますように。
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